一度会っただけなのに、今でも忘れられない女性が一人いる。

ブラジルのCopacabana（コパカバーナ）という街に住み始めて間もない頃だった。僕はいつも通り朝のコパカバーナ海岸でアグアジココを飲みながら新聞を読もうと思って、マンションの自分の部屋を出た。

そのマンションのエレベーターで1階へ降りていると、途中の階で一人の女性が乗ってきた。腰がまがって白髪で歩くのもゆっくり。視線は前よりも下を向いている感じ。歳は80歳ぐらいか、そういった外見の女性。

イパネマやコパカバーナの海岸付近のマンションには、こういったご年配の方が多い。余ったお金で人生を楽しんでいる感じ。この女性もそういった中の一人なのかもしれない。

特に何か特徴があるような女性ではなかった。

今思い出しても明確な原因が分からない。

何か嫌なことがあって機嫌が悪かったのか、単に億劫だったのか、何なのか・・・。

僕はエレベーターに乗ってきたその女性に対して、何もしなかった。

この時エレベーターに乗っていたのは僕とその女性の二人だけ。その女性が乗ってエレベーターが再度動き出してすぐだった。

『おはよう。挨拶はした方が気持ちが良いわよ。』

ドアが閉まって一瞬静まり返ったエレベーターの中に突然こんな声が響いた。若者のような力強さは無く少し弱い感じだけど、とても穏やかな中に快活さを感じられる声だった。

声の発生源はもちろんその女性。僕はちょっとびっくりしてその女性の方を見た。腰が少し曲がっているから頭の位置は僕より低い。その頭を持ち上げ僕の方へ顔を向け真っ直ぐこっちを見てニコッとしていた。

『あぁ、、、ええ、おはよう。』とすかさず返した。

『情けない。何やってんだ俺！！』って思った。

ブラジルは広いから地域によって差はあるけど、基本的にブラジル人は本当によく声を掛け合う。知らない人同士でも道ですれ違えば『こんにちは』なり何なりアクションをとる。周りの人を気にかけているとても素晴らしい行為で僕もそうしていた。

でも、この時の僕はそれをしていなかった。エレベーターで乗り合わせたその女性を無視してしまっていた。『何もしない』という行動をとってしまった原因は分からないけど、でも僕がどういった状態であったにせよ、結果としてその女性に対してとても酷いことをしてしまったことは事実。とても苦しくなった。

その女性の笑顔はもちろん、あの時のエレベーターの音、マンションのドアマンが居るロビーの空気の肌触り、出入り口から指し込む朝の陽の光、漏れ伝わる外の喧騒、諸々今でもはっきりと思い出せる。それほど強烈に印象に残った時間だった。

僕をスッと健全な方向へ正してくれた事にとても感謝している。

会ったのはこの時一度きり。

名前も何も知らない。

でもこの先もずっと、僕が死ぬまでずっと忘れない。

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